【城下町会津の成立】
会津は奈良以前から東北の経済文化の中心として栄えました。
平安時代には、最澄・空海と並ぶ高僧として知られた徳一大師が会津の地にあって仏教布教につとめました。平安後期から鎌倉時代には多くの寺院が建立され、奈良・京都・鎌倉に次ぐ一大仏教都市を形成しました。会津磐梯山の山麓に建立された徳一大師開基の恵日寺は堂塔伽藍百、僧兵三千人を数えると言われる大寺院でした。
戦国時代は葦名氏の領国でしたが、天正十七年(1589年)伊達政宗が葦名氏を滅ぼし、会津の黒川に本拠を置きました。その後豊臣秀吉の奥州仕置きによって蒲生氏郷が会津入りし、文禄二年(1590年)には蒲生氏郷が会津城下町の町割りを定めました。これが現在の会津城下町の始まりといえます。その後会津は上杉・蒲生・加藤と変わり、寛永二十年(1643年)二代将軍の子の保科正之の入封となります。
【会津味噌のルーツ】
保科正之編纂・会津風土記「寛文六年(1666年)会陽町街改基惣町」によれば、城下の家数三千二百五十六軒とあり鋳物師・刀鍛冶・鉄砲鍛冶・塗師など四十一種類の記述がありますが、味噌屋の記述は見られません。
会津地方に限らず、古くは各家で味噌を仕込むのが当たり前で、江戸初期の頃は商いとしての味噌屋はなかったのでしょう。
それが二十年後の会津風土記「貞享二年(1685年)書上げの風俗帖」の〔惣町役儀之帳〕になりますと、武士生活用品の手伝い人足の割り当てとして、御味噌手伝百四十四人、御醤油手伝い人足二十一人と記されており、城内で味噌・醤油が作られていたことを伺わせます。
又同じ風土記の「甲賀町覚書」には役屋舗八拾壱軒とあり町内の家業二十八種類が挙げられています。その中に味噌屋六軒と記されています。
この甲賀町はもともと、蒲生氏郷が会津に移封した時、日野より連れてきた職人・商人の住む町として作られ日野町と言われました。加藤時代に甲賀町と改名されましたが、商工の町として賑わいました。保科(会津松平)時代になり四十二年、城下の生活も安定した頃で様々な家業が増え、味噌屋が商いとして定着したのではないでしょうか。
約百二十年後の会津風土記「若松風俗帳・文化四年(1807年)調」には、城下の職業として鋳物・蒔絵・鍛冶・大工・表具等八十三種類記され、商売品としては呉服・小間物・酒・醤油など四十七品が上げられており、その中には味噌も記されています。この頃には味噌が商品として売買されていたことが判ります。
また、嘉永五年(1852年)に「若松禄高名五副対」が発行されました。これは会津藩の学問・芸能・名物・名所・商売・職人など様々な分野の現代で言うランキング表で、ここに味噌屋の名前5軒、醤油屋の名前5軒が上げられています。その中には現在も味噌醤油屋として続いている蔵元もあります。
「甲賀町覚書」には味噌屋六軒と記録があり、「若松風俗帳」には味噌が商い品としてのリストにあがり、更に「若松禄高名五副対」では味噌屋が城下町の各地に店構えするようになり、その中から五つの蔵元が著名味噌蔵元として掲げられています。
現在に残る「会津みそ」の蔵元の中には、寛政二年創業(1790年)或いは天保年間創業(1830年頃)等の言い伝えがあります。前出の資料と併せ、商品としての「会津みそ」は江戸時代始まり、幕末には会津城下で味噌業が盛んであったことから、二百年から三百年前に遡ることができると推察されます。